お早うございます。早起きディレクターです。
自分は酒飲みの”辛党”なので普段は甘いお菓子をめったに食べませんが、それでも最近はちょくちょく口にする機会があります。
昨晩もこの春に九州から大阪の調理師学校に通い出した従兄弟の娘(「従姪」”じゅうてつ”又は”いとこめい”というんだそうです)が、実習で作ったというシュークリームを6個も持ってきてくれたのですが、これがなかなかよく出来ている!
「シュークリームの皮ってこんなに美味いんや!」
と、感想を伝えると、にっこりと嬉しそうに微笑んでいました。
「将来は外国に行ってお菓子の勉強をしたい」という夢を持つ彼女。
でも、今年3月末から遠く離れた大阪でひとり慣れない下宿生活をはじめたばかりの頃は、毎晩心細くて泣いていたそうです。
「きっとこの経験はいつか大事な思い出になるよ」と言って励ましてはいるのですが、まだまだ18歳の身空には辛いこともあるでしょう。
そんな彼女のお婆ちゃん(僕の叔母さんです)も、かつて若い頃には九州から大阪に来て働いていました。
その時に寝泊まりしていたのが僕の家族が暮らす団地です。
つまり叔母さんは僕の母親である実姉を頼って大阪にやってきていたわけです。
昭和にはそんな風景があちこちで見られました。
ただ、同居といっても我が家も狭いですからもちろん子どもたちとの相部屋。
4畳半の片隅に二段ベッドがあってその上下に小学生の僕と姉、叔母さんはベッドの横にちいさな布団を敷いて寝ていました。
でも、あの頃は子供心に毎日が刺激的で楽しかった。
何よりも一番記憶に残っているのが、そのおばさんの笑った時の三日月みたいに優しい瞳です。
懐かしい三日月目の叔母さん
叔母さんは当時まだ20歳そこそこで、普段はそれほどおしゃべりな人ではありませんでしたが、とにかく母性愛の強い、今風に言えば”女子力の高い”人でした。
僕はその頃は小学2年か3年生くらい。
おっちょこちょいで調子の良いガキですが、意外と繊細なところもある僕の性格もしっかりその目で見抜いてくれて、よくフォローしてくれました。
父親からひどく怒られた時など、後でやさしく慰めてくれて「叱る側の親の気持ち」などを諭してくれたものです。
だから、おばさんが家にいた時期は僕にはとても安心で甘い毎日だったのです。
人生はシュークリームほど甘くはないけれど
時が過ぎ、そんな叔母さんも我が家を出て九州に帰ることになり、そしてやがて結婚して優しい目をした男の子を二人生みました。
何度か九州の叔母さんを訪ねましたが、そのたびに相変わらずの三日月みたいなやさしい目で僕を歓待してくれ、手作りのごちそうを振る舞ってくれました。
甘い卵焼きが衝撃的にうまかった。
でも、もちろん良いことばかりではありません。
僕が社会人になってからは会う機会も減りましたが、その頃は叔母さんは保険の外交員をしながらひとりで子どもたちを育てていました。
外交員は大変な仕事ですが、あの母性的な性格ですからきっとお客さんの人気を得ていたことでしょう。
晩年に出会った時にはたくさんの孫(なんと女の子7人!)に囲まれてとても幸せそうでした。
おばさんが亡くなってから16年が経ち、今度はその孫が大阪にやってきました。
近頃は人間の「縁」の不思議さを心から感じています。
そして彼女といるといつも背景に叔母さんの空気を感じてしまいます。
彼女は三日月というより真ん丸な瞳ですが、微笑むとやっぱり同じように温かい。
そのうち、九州の叔母さんの仏壇にも甘〜いお菓子が備えられることでしょう。
(従姪へ)「今度うちに来るときは、是非、ウィスキーに合うチョコレートをお願いします。
そんなに甘くなくてもいいよ。」(酒飲みのおじさんより)
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