お早うございます。早起きディレクターです。
昨日、映画「シン・ウルトラマン」を観ました。
まずまず面白い映画でした。
懐かしい怪獣も今風にアレンジされてたくさん登場しました。
最後にウルトラマンが地球を守るために、自分の命をかけて”宇宙恐竜”ゼットンと戦う場面ではちょっと感動もしました。
でも、子供の頃のようにはときめかない。
見終わって、心になにも残らない。
めっちゃ、わかりやすい映画だったんですけど・・・
でも「わかりやすさ」って一体なんだろう?と、あらためて考えてしまいました。
「わかりやすさ」を求めていた若い頃
僕は25歳でテレビの仕事を始めたのですが、当時は、今から思えば恥ずかしくなるような勘違いをたくさんやらかしていたものです。
例えば「職人さん」へのインタビュー。
今も取材先で色んな職業の人に出会えることは喜びですが、特に若い頃は”物”を作る職人さんの話を聞くのが大好きでした。
でも、今思えば取材相手に自分の思いを反映させようとしたところがあったようです。
若くて血気盛んだった年齢のせいか「人間とはこうあるべきだ」と思いこんでいた。
そして、職人さんの口から出る言葉に「熱い想い」を期待しすぎていた。
つまり「職人とは確固とした自分の信念があるべきだ」と思い込んでいたんです。
でも人間って、もし信念を持っていたとしたところで、その思いが分かりやすい形で表面に出る人もいれば、そんなことは心の奥深くにとどめておくだけの人もいます。
中には”自分の信念”など持っていない(持つ必要がない)人だっているかもしれない。
職人と言えども千差万別色んな人がいて当たり前なのに、そのことには気づかずに当時の自分は、ある種の職業の人々を紋切型の分類で括ろうとしていたようです。
そして、その理由の一番は「視聴者がわかりやすいから」
これは当時だけでなく、今でもテレビ業界ではよくあることでしょう。
「他人にわかりやすく構成、編集する」ことはもの作りの現場ではよく言われることです。
でもディレクターが「わかりやすく」編集したところで、それが真実を語っているとは限らない。
「視聴者への親切さ」はもちろん大事ですが、だからといって作り手の一方的な思い込みだけでは深みのあるものなど出来ない。
いまならそれがよくわかります。
ますます伝えたいことが刈り取られる時代
いまやマスコミだけでなく一般の人達もSNSを通して自分の意見を世界に発信できる便利な時代です。
でも、僕たちは発信者の生の言葉や表情をすべて自分の目や耳で”直に見聞き”することはめったに出来ません。
物理的にも取材したすべての要素を伝えることは困難です。
そして”悪意であろうが善意であろうが”誰かのコメントや動画の一部だけが切り取られて取り沙汰されることは今やしょっちゅうです。
だからこそ僕たちはテレビだけでなくやインターネットや映画に出回る言葉や映像の情報には心から慎重に対応しならなければならない。
いつの世も人間は”自分の信じたいもの”を信じようとします。
そしてそれをできるだけわかりやすく頭の中に整理しようとします。
でも別に情報なんてすべて頭で理解できなくたっていいのかもしれない。
「シンプル」は「ベター」かも知れないけど、もしかしたら「ベスト」ではないのかもしれない。
あまりにもシンプルでわかりやす過ぎるものには今や若干の恐れさえも感じます。
とくに、ここ数年でその思いは強くなっています。
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