お早うございます。早起きディレクターです。
さっき何気にTwitterを読んでいたらとても印象深い記述を見つけました。
それはある昭和生まれの男性のツイートです。
TVで令和の若者達が昭和の歌謡曲の歌詞に共感できるか否かみたいな話をしているのを見た男性は”自分は当時の歌謡曲の歌詞に共感など求めたことが全く無かった”ことに気づいたそうです。
あの頃求めていたのは共感ではなく「面白いか面白くないか」だったと。
それを読んで「そういえばそうやな」と、僕も思わず共感(恥ずかしい)してしまいました。
共感をもとめる時代
確かに今はTwitterやFBなどをはじめ、あらゆるジャンルで共感が大流行です。
それは僕らが作るTVメディアも同じ。
見ているものにやたら”感動”や”優しさ”の共感、時にはちょっと過剰な”家族愛”的な共感が求められます。
例えばボクシング中継なら、戦う選手だけでなくやたら観客席の家族がカットバックで見せられたります。
ディレクターはよほど「ロッキー」的なドラマが作りたいのでしょうか。
でも、共感があっても試合の内容がつまらなかったらそんな”盛った演出”は恥ずかしいだけ・・・などと冷めたことを考えるのは僕だけでしょうか。
実際かつての日本人は愛とか優しさとかとは別の次元でスポーツ中継を見ていました。
「今日はどんなノックアウトシーンが見られるかな?」
そんな時代に戻りたいとか言っているのではないのですが、あまりに熱く共感を求められると居心地が悪くなるものです。
「事実を淡々と」が一番いいんですが、これがむずかしい
いまは絵本作家の長谷川義史さんと一緒に「とびだせ!えほん」という旅のコーナーを担当しています。その旅の途中では毎回、長谷川さんが出会った風景や人物などのスケッチを描くのですが、そこにはたいてい短い文章が添えられます。
それも書くシーンによってユーモアのあるものや悲しいものなど多種多様なんですが、たいてい長谷川さんはあまり自分の心象などを感傷的には述べません。
たいていその時の身の回りの事実をそっと置くように淡々と書くだけ。
でもそれだけに、僕はいつもその文章に感心させられてしまうんです。
人の心に残るもの
そういえば三木露風の「赤とんぼ」の歌詞も事実を淡々と述べるだけで作者の気持ちは書かれていません。
でも聞くものを感傷的にさせる。
それができるのが本物なんでしょうか。
「夕焼け小焼けの赤とんぼ とまっているよ、竿の先」
もちろん自分の作るコーナーでもみなさんに共感してもらえるにこしたことはないのですが、それだけを求めているわけでもありません。
そして誰かを「癒やそう」なんていう大それたことも考えていません。
ただ「面白かった」と喜んでもらえると嬉しいですし、見終わった時に少しでも何かが心の中に残っていてほしい。
見終わった途端に忘れられることはディレクターにとって一番さみしいことですから。
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