お早うございます。早起きディレクターです。
最近テレビを見ていて感動的な場面で作り手が「むやみにやたらに興奮や感動」してかえって冷めてしまうことってありませんか?
例えば無理やり感動的な言葉を連発するインタビュアーだったり、試合を盛り上げるためにやたら絶叫するスポーツ中継のアナウンサー。
「感動ポルノ」などと揶揄されている番組もそうかもしれません。
感動するのはディレクターの通過儀式?
僕も今はそういった場面を見ると「きょうも勝手に盛り上がっとるなあ」と冷めた目で見ることが多いです。
ただ僕は思うんですが、この「勝手に盛り上がる」「陶酔する」というのも若手がディレクターとして成長する上で通過せざるを得ない一つの儀式なのかもしれません。
そうしてものづくりの楽しみを覚えてくのもありだとは思います。
僕の場合も若くて経験の浅い頃は、今では考えられないほど素直に言葉を受け取り「甘い感動」にふるえていました。
そして同時にインタビュー中に話の展開が「こうなればいいのにな」とか「この言葉を喋ってくれればもっと感動的になるのになあ」なんて”自分の都合で想定”していることもよくありました。
もちろん相手を誘導して心にもないことを喋ってもらうのはNGですが、話し手の考えに沿った言葉を引き出すのならそれも演出の範囲内だと思います。
やっぱりディレクターは「意図」を持って現場に臨むのが基本だと思うからです。
逆に意図も脈絡もなく漠然と収録にのぞむのは取材相手にとって失礼だからです。(もちろんこれは制作番組に関してです)
こうしてディレクターは何度もそんな現場を体験するうちに、自分の都合で話を聞くことの愚かしさがわかるようになるのかもしれない。
とはいえ成長過程の未熟なものを見させられる視聴者はたまったものじゃありませんよね。
すいません。やっぱり精進します。
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