お早うございます。早起きディレクターです。
ちちんぷいぷいの「とびだせ!えほん」というコーナーは出演する長谷川さんと担当ディレクターが昭和35&36年生まれということもあって非常に昭和のにおいの強いコーナーです。
話をしていてもすぐに松竹新喜劇の話題が飛び出したり、ながれる音楽も昭和歌謡が満載。
よく登場する路地やトタン、アロエからしても昭和的な遺産です。
このコーナーを楽しんでくださるみなさんも、たぶん昭和生まれの人が多いのではないでしょうか。
でもこれだけみんなから懐かしがられる昭和って一体何だったんだろう?
人間誰でも自分が育った時代を懐かしむ傾向はあるでしょうが、この”昭和という旧友”のノスタルジーさ加減はちょっと常軌を逸している気もします。
昭和を懐かしむFacebookを読んで考えた
「昭和レトロ」というFacebookのサークルがあります。
これは昭和を懐かしむ人々がそれぞれ印象に残る昭和の出来事や思い出の品などを投稿してわいわいコメントをしながら楽しむサークルなんですが、ここに投稿する皆さんは(当たり前ですが)ほとんどが昭和生まれ。特に昭和30年から45年頃に生まれた方々が多いようです。
そんな人々のコメントで共通しているのが「物は不足していたが昭和が一番良かった」という意見。
この世代のひとびとは昭和、平成、そして令和の3時代を過ごしていますが、みんな「物が豊かな今や平成時代よりも昭和のほうが圧倒的によかった」と口をそろえます。
その昭和に対する礼賛ぶりはサークルの特徴で、僕もこのサークルが気に入っているのですが「ちょっと待てよ?」という気もします。
では、そんな昭和を礼賛する僕らに明日の希望はあるのか?
つい、そんなことを考えてしまいました。
もちろん僕も昭和には大切な思い出がいっぱい詰まっています。
1964年。家族で九州から大阪のアパートにやってきた4歳の頃。
せまい4畳半に4人家族が布団を並べて寝た思い出。天井の染みを見て怖がるぼくの手をずっとにぎってくれた母の手のぬくもり。
暑くても冷蔵庫には氷がないからぬるい麦茶ばかり飲んでいた夏休み。
頑固な父親と一緒に行った大阪万博では行列のできる人気パビリオンは避けて、名前も知らない国のちいさなブースばかり連れて行かれましたが、そんなことさえあたたかい思い出です。
令和くんとの付き合い方
そんな昭和という”貧しいけど明るい友だち”はいまから30年前の1989年、僕が結婚してまもない頃に突然去っていきました。
それから平成という”物があふれた裕福な知人”と30年間つきあいました。
そして2020年。
還暦をむかえた僕にはまだまだ時間がうんざりするほど残っています。
これからは令和という”頭が良くてちょっとクールな後輩(偏見ですね)”と付きあっていかなければなりません。
そんな令和くんもいきなり世界的な流行病で苦労していますが、きっとそのうち「雨降って地かたまる」こともあるでしょう。
昭和には世界を巻き込む大きくて悲惨な戦争がありました。
戦争を知らない世代の僕らは戦後復興するための”希望”という大きな恩恵をうけて育ったに過ぎません。
平成になっても阪神淡路や東北など、大きな地震を何度も体験しましたが、みんなで乗り越えようと手をつなぎました。日本人の矜持や人とのつながりも実感しました。
令和くんとだってたまに喧嘩はするけどいつか思い出に残れるような関係が築ければいいなと思っています。そして平成や令和に生まれた子どもたちがいつか振り返った時にあの頃は楽しかったと感じられる時代になればいい。
僕らは時に昭和の温かな思い出をふりかえりながら前を向いて歩くしかありません。
さて、今日は大好きなあいみょんの”昭和チックな歌”でも聞きます・・それにしても万博で月の石だけは見たかったなあ。
0 件のコメント:
コメントを投稿
ご意見